開始の合図と同時に、大翔は前へ出たが、大きく動かなかった。左足を静かに半歩前へ滑らせると、右拳を顎の高さに構えたまま、左の拳はいつでも相手の左のグローブを触れられる位置に構えている。そして、まるで相手の出方を待つようにリング中央へ歩み寄っていた。
その姿には焦りも気負いもなく、初めて所属したジムでのスパーリングとは思えないほど落ち着き払った雰囲気が漂っていた。一方の圭太さんは軽快なフットワークでリングを回りアウトボクシングのスタイルを取った。一定の距離を保ちつつ、ジャブを打ちつつ、右へ細かくステップを刻む。
おそらく距離を支配しながらポイントを積み重ね、KOではなく判定狙いのアウトボクサーなのだろうと、大翔は相手の構えと足運びを見ただけで察した。
圭太さんがジャブを放つたび、大翔もタイミングを合わせるようにジャブを返していた。互いの拳は常に空を切っていたが、主導権は渡さなかった。大翔はそのやり取りの中で圭太さんの癖を観察していた。
まだお互いにヒットはない。リングの中央には静かな緊張感が漂い、ジムにいたキッズたちも自然と息を呑んで二人の様子を見守っていた。
先に駆け引きに出たのは圭太さんだった。
踏み込んで左ジャブのフェイントから右ストレートが鋭く一直線に伸びる。しかし大翔は慌てることなく左拳でわずかに払い、ほとんど体勢を崩さないまま見送る。そのままカウンターの右を合わせたが、それは空を切った。そして、右に動いた圭太さんに体の向きを合わせ、圭太さんの戦い方の学習を始めた。右へ移動する時、左へ移動する時、それぞれの重心移動やステップ、パンチを打つタイミングまで頭の中へ整理していく。
試しに右へ逃げる進路を塞ぐように半歩踏み込みながらジャブを放ってみた。すると、圭太さんは左回りへ避けて、右ストレートを打ってきた。大翔はバックステップでそれをかわすと、再び圭太さんの前に戻った。
距離の取り方は上手い。でも、動きに癖がある。
右へ動く時と左へ動く時で、一瞬だけ重心の乗り方に違いが生まれているな。その癖がある以上、作れる隙は予測できる。
大翔は内心でそう考えながら、なおも不用意には攻め込まなかった。圭太さんは二度、三度とジャブを放ち、そのたびに角度を変えて距離を作ろうとする。しかし大翔はそのジャブに対して打ち終わりにパンチを入れるだけ、あるいはグローブで流すだけで、圭太さんの隙を誘うために駆け引きをしていた。その姿を見ていた会長は小さく目を細めた。
「・・・・・・見えておるのう」
圭太さんは、自分の攻撃がまるで当たる気配を見せないことに少しずつ焦りを感じ始めた。
だったら前へ出るしかない。
そう判断した圭太さんは、ジャブをフェイントに変えて一気に踏み込み、右ストレートを放つ。しかし、その拳が届く寸前、大翔は半歩だけ後ろへ下がった。たったそれだけの動きで拳は空を切り、圭太さんの右肩がわずかに前へ流れる。
この瞬間、大翔は初めて大きな反撃に転じた。
左ジャブで視界を遮り、その直後、無駄のない軌道で右ストレートを真っ直ぐ打ち抜く。
ドッ――。
拳は圭太さんのガードの隙間を正確に射抜き、頬を鋭く弾いた。
「っ!」
大きくのけ反るほどではない。しかし、誰が見ても分かる今日最初のクリーンヒットだった。
キッズたちから小さなどよめきが起こる中、カウンターを入れる隙を作らないために、大翔は追撃しなかった。
今はまだだ。焦って追えば相手の土俵に乗ることになる。
圭太さんはすぐに横へ回って体勢を立て直そうとする。しかし大翔は追い掛けるのではなく、逃げる先へ静かに歩いていく。リングの中央を譲らず、半歩、半歩と角度を変えながら進路を塞ぐ。その動きに派手さはないものの、圭太さんにとってはじわじわと首を締められるような圧迫感だった。
動き続けても大翔のインファイトの土俵になってしまう。気付けば自分の背中にはロープが近付いていた。
まずい。
圭太さんは慌てて左へ抜けようと踏み出す。しかし、その瞬間、大翔の左拳が腹部へ鋭く伸びた。
ドスッ。
みぞおちの少し下へ吸い込まれるように突き刺さったボディブローに、圭太さんの呼吸が一瞬だけ止まる。
「ぐっ・・・・・・!」
これが二発目だった。
強烈に打ち抜いたわけではない。それでも体の芯を捉えられた衝撃は確実に足へ伝わり、軽快だったステップからわずかにキレが失われる。
ボディを嫌がったな。圭太さんは今のボディが見えていたはず、顎とボディにヒットさせたけど、明らかにボディの方が精神的な動揺が見られるな。
大翔は心の中で静かに頷きながら、それ以上は無理に攻め込まない。ジャブを突いて距離を支配し、相手に考える時間を与えず、逃げ道だけを奪っていく。
圭太さんは何とか流れを変えようとワンツーを放ち、さらに左フックへつなげる。しかし、そのどれもが大翔の顔をかすめることすらできない。時には首をわずかに傾け、時には半歩だけ距離を外し、必要最低限の動きだけで拳を空振りさせていく。その冷静な防御に、圭太さんは自分が完全に読まれていることを悟った。
このままじゃ終わる。
そう思った圭太さんは意を決し、右に動いたと同時に体勢を整え、動きをフェイントに変え、大きく踏み込んで右ストレートを振り抜いた。
大翔は一歩だけ左へ角度を変え、右拳を紙一重でかわすと、がら空きになった左頬へ鋭い左ショートフックを打ち込んだ。
バシィッ!
乾いた音がジム中へ響き渡る。
これが三発目、そしてこの日最後のクリーンヒットだった。
圭太さんの体がぐらりと揺れ、思わず後ろへよろける。その姿を見た会長は即座に二人の間へ踏み出し、力強く手を上げた。
「そこまでじゃ!」
カンッ、と予定より早く会長の鳴らしたゴングがジムの中で鳴り響く。
大翔はすでに次のボディへの一歩を踏み出しかけていたが、ゴングの音を聞いた瞬間にぴたりと拳を止め、静かに一歩下がった。最後まで一発も被弾することなく、試合開始から終了まで終始リングを支配していた大翔に対し、ジムの中は一瞬静まり返る。そして次の瞬間、キッズたちから驚き混じりの歓声が上がり、会長は腕を組みながら満足そうに頷いた。
「ゴングって、」
「うむ、早めに鳴らしたよ。練習でこれ以上はやらせられんよ」
「分かりました」大翔は会長にそう言うと圭太さんの方を見た。
「ありがとうございました」大翔はそう言って頭を下げた。
「えへへ、ありがとう大翔くん、いや~やっぱり強いね。ライトでそれだけの破壊力が出るのか。僕もまだまだ頑張らないと」圭太さんはそう言って、乱れていた呼吸を整えるため、何回か深く息を吸い込み深呼吸をした。
「さすがじゃよ黒岩くん。わしが見込んだだけあって想像以上の強さじゃのう」
「ありがとうございます」
ガチャ ジムの扉を開けてぞろぞろと二十代くらいの女性が三人入ってきた。
「「「こんにちは」」」一人は茶髪ポニーテイル、もう一人は金髪ポニーテイルで毛先が巻かれていた。最後の一人はショートカットの黒髪に、横に編み込みを入れていた。女性三人はそれぞれ個性豊かな髪型で、三人ともめちゃくちゃ美人だった。その中の、茶髪の子が大翔に気が付いて話し出した。


コメント